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古本万歩計 Of what is lost, all I wish to recover is the daily availability of my writing, lines capable of grasping me by the hair and lifting me up when I'm at the end of my strength. - Roberto Bolano

『昔日の客』を読む   

関口良雄『昔日の客』(夏葉社)が届いた。これまでいくつかの古本関連の書籍やブログで、断片的にその文章に触れてきた『昔日の客』。でもそれは本当にほんの断片にすぎなかった。いま、断片ではなく、そのすべてが目の前にある。

「正宗白鳥先生訪問記」から読み始める。「偽筆の話」、「上林暁先生訪問記」、「伊藤整氏になりすました話」など、もう興味津々。「某月某日」まで読み進んで、しばし休憩。休憩後、我慢できずに、野呂邦暢との交流について書かれた「昔日の客」に飛ぶ。じいんときた。この表題作をどれだけ読みたかったことか。感無量である。

しかしそれだけではない。もちろん著者が敬愛した作家についての文章も掛け値なしに面白いが、少年時代を回顧した文章がまたいい。
 今年の五月初旬、私は二十数年ぶりかで、故里の土を踏んだ時、今は他人の家となっている生家の前に佇んで往時を偲び、長い間忘れていた雑貨屋の店先にも立ってみた。
 あの時の勉さんの新妻は早や初老となり、一人娘には養子を迎え、夫婦の中には勉さんに生きうつしの十五、六歳の息子さえいた。
 私は最近これほど如実に、人生の流れの早さを感じたことはない。 (「恋文」)
 いつもは生徒を教える立場にいる先生だったが、この時ばかりは、私の言うなりになって手を洗い、紙片でいともしおらしく、どうかイボが治りますようにと、となえている様子を見て、私は心中甚だ愉快な気持ちになった。 (「イボ地蔵様」)
これらはいずれもわずか4ページほどの回想文にすぎないのだが、一方でちょっとした私小説の佳品といえるのではないか。そんなことを考えていたら、この夏に読んだ上林暁『半ドンの記憶』所収の「非行中学生」などの一連の短篇がふと頭に浮かんだ。雰囲気がすごく似ている、とおもって、『半ドンの記憶』を棚から取り出して開いてみたら、「装丁 山高登」とあった。ああ、やっぱりそうだったか。『昔日の客』の口絵と裏表紙版画も同じ山高氏によるものである。こういうことは知らないところでつながっているもんなんだなあ。

『昔日の客』を読む   _c0213681_2322286.jpg

by anglophile | 2010-10-07 21:45 | 読書 | Comments(0)