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2016年 01月 23日
ずっと青豆が下の名前だと思っていた
何の前触れもなく妻が「もう青豆は妊娠したか?」などという要らぬ情報をリークしてくるので一時ブックオフに避難する。村上春樹訳『愛蔵版 グレート・ギャツビー』(中央公論新社)とトムヤンティ『メナムの残照』(角川文庫)を216円で買う。ギャツビーの愛蔵版は函入りで小冊子が付いていて豪華だ。これが108円とはうれしいな。ハルキ日和が続いているので、今なら読めるかもしれない。
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by anglophile | 2016-01-23 23:48 | 古本 | Comments(0)
2014年 11月 13日
今日の古本と重力の虹
c0213681_053235.jpg今日は霰が降った。日が短くなり、家路には哀愁が漂いはじめている。あちこち寄り道。

・アーサー・ビナード 『日々の非常口』 (新潮文庫) ¥108
・石川淳 『影/裸婦変相/喜寿童女』 (講談社文芸文庫) ¥108
・長部日出雄選 『映画が好きな君は素敵だ』 (集英社文庫) ¥108
・伊藤計劃/円城塔 『屍者の帝国』 (河出書房新社) ¥108
・東浩紀 『弱いつながり 検索ワードを探す旅』 (幻冬舎) ¥108
・石子順造/上杉義隆/松岡正剛編 『キッチュ まがいものの時代』 (ダイヤモンド社) ¥240

『映画が好きな君は素敵だ』は日本ペンクラブ編のアンソロジーの一冊。久しぶりにこのシリーズの未所持本を見つけた。本棚を調べてみたら、このシリーズは20冊ほど持っていた。最初に買ったのが椎名誠選『素敵な活字中毒者』。初めて訪れたあうん堂さんで買ったのだった。7年前くらい?

さて、『重力の虹』は、いよいよ最終第四部「カウンターフォース」へ突入した。もう出てこないのかと思っていたロジャー・メキシコ君が使命感に燃えて900ページぶりに再登場したり、訳者が脚注で「これを正気で翻訳することは不可能」とつぶやいてみたりと、もう何でもありの展開に頭がおかしくなりそう。一番驚いたのは、電球(名前はバイロン)が自分の来歴を語り出したこと。十数ページ続くこの部分だけで短編が一つ出来上がりそうだ。

◆『重力の虹(下)』@490
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by anglophile | 2014-11-13 23:49 | 古本 | Comments(0)
2012年 07月 05日
ベルリン・アレクサンダー広場
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アルフレート・デーブリーンの名を知ったのは、ロベルト・ボラーニョの『2666』を読んだときだった。重要な登場人物であるドイツ人作家アルチンボルディがデーブリーンの著作を読み漁ったという記述が出てくる。なんとなく興味を惹かれて、日本語に訳されている作品があるのか確認してみたら、代表作であるらしいこの『ベルリン・アレクサンダー広場』がずいぶん昔に訳されていることを知った。が、その旧版の価格はとんでもないことになっていてとてもじゃないが手を出せない。なので、しばらく前に、この大作が復刊されると知ってから、心待ちにしていた。40年ぶりの復刊ということになるらしい。

訳者の早崎守俊氏の「解説」より。
 本訳著は河出書房新社のシリーズ、モダン・クラシックスのひとつとして、一九七一年に上下二巻で出版されたものの改訂版であるが、改訂にあたってはいくつかの訳のあやまりの訂正のほか若干の表現の不具合いを正しただけにとどめた。したがってこんにちからみれば多少違和感のある差別的用語がみうけられるかもしれないが、この小説がもともと一九二八年のベルリンの裏街社会に住まう人びとの物語、語られている言葉はすべてベルリン方言で、とりわけ卑語も多用されていることなどを勘案して読んでいただきたい。(548頁)

まだ全然読める状況にないので、目の前に置いて眺めているだけ。カバーをとったら角背なのだ。かっこいいなあ。新潮社のピンチョン全集も角背で、雰囲気が似ているかもしれない。

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なんとかこの夏の間に読みたいと思っているのだが...
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by anglophile | 2012-07-05 23:47 | 読書 | Comments(0)
2012年 06月 12日
クレバスに心せよ!
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アメリカ文学の最高峰を成す作品群を残したハーマン・メルヴィルが1891年に72歳で亡くなったとき、文芸誌のハーパーズ・マガジンに載った死亡記事はわずか2行、しかも年齢を1歳まちがえて伝えていた('September 27th. --- In New York City, Herman Melville, aged seventy-three years.')。また、かのニューヨーク・タイムズはメルヴィルのファースト・ネームを「ヘンリー」と誤記したとかしなかったとか。一方、かつての知人の中には、メルヴィルがとうの昔に亡くなっていると思っていた人もいたらしい。作家はすでに過去の人となっていた。

そんなメルヴィルの人生について、殊に作家としては不遇であったその後半生についてときどき考えることがある。1851年に発表された『白鯨』は当時の読者を戸惑わせたが、日本ではこれまでに翻訳が11種類出ており、そのことをメルヴィルが知ったらどう思うだろうか。いくつかの評伝を読むと、『白鯨』の出版に始まる1850年代初め以降、自作に対する相次ぐ酷評にメルヴィルはなかばヤケになっていたかのような印象を受ける。書きたいと思う作品を書けば書くだけ、読者からはますます遠ざかっていくという悪循環。長篇小説としては最後のものとなった『詐欺師』(The Confidence Man)は1857年に出版されたが、作品に対する評価はあいかわらずだった。しかし、かつて畏友ナサニエル・ホーソーンに宛てた手紙に、'It is better to fail in originality than to succeed in imitation.' (「模倣によって成功するよりも、未だ書かれたことのないものを書いて失敗することを選びたい」)という言葉で自身の作家としての態度を表明していたように、メルヴィルは時代に迎合することを最後まで拒んだのだった。家計は逼迫する一方だったが、メルヴィルは筆を折るどころか、執筆欲は増すばかり、『詐欺師』発表後は散文を離れ、徐々に詩作に向かうことになる。メルヴィル家では、執筆に没頭する主人の健康を心配するのが習慣となっていた。

後年、メルヴィルはいくつかの重要な短篇作品を書いたが、一方で少なからぬ詩作品を残している。例えば、1866年に発表した Battle-Pieces は南北戦争に想を得ているし、亡くなる数年前に私家版でごく少部数出版された John Marr and Other Sailors(1888年)は若き水夫時代のことを題材にしたものだった。しかし、最大のものといえば、1876年に刊行された長篇叙事詩『クラレル』(Clarel: A Poem and Pilgrimage in the Holy Land)であり、長さは18000行に及ぶ。長さだけを見れば、『マーディ』(1849年)や『白鯨』に比するといってもよい。研究者によれば、『クラレル』の執筆開始は1867年頃だったようだが、作品の着想自体は1856年から57年にかけて地中海を旅行したときに得ていたようで、そうなると構想から執筆、そして完成までの期間は実質20年ということになる。この長大な詩篇を日本語に翻訳した須山静夫は、この時期を「メルヴィルの魂の二〇年にわたる巡礼の足跡にほかならない」と表現している。

この世には長大さと難解さゆえに翻訳が困難とされる書物が少なくないと思うが、『クラレル』もその点においては引けをとらない。アメリカ文学研究者だった須山氏がこの鈍い光を放ち続ける結晶に一条の光を当てたのが1999年だった。その翻訳には15年あまりの歳月を費やしたという。版元は(もちろん)南雲堂。当時どれほどの書評が出たのかは知らない。メルヴィルの魂に共感する者の一人として、この詩篇には関心を持ち続けてきたが、素人の個人所有を拒むかのような値段設定にいまだ入手すらはたしていない。翻訳は1000頁近くあり、心地よいめまいをおぼえる。現在は絶版となり、手に入れるなら古書ということになるが、古本はぜひ105円で、と思ってばかりいる浅墓者に、そんな幸運はそうそう訪れない。県内のどの図書館にも入っていないようで、実のところ、実物を拝む機会すら訪れていない。

***

さて、先々月、いつも行く書店で、ふらっと外国文学棚の前を通ると、他とは少しちがう雰囲気を持った本が目に入ってきた。棚の限られたスペースになぜか面陳されていたその本は、吉夏社(きっかしゃ)という出版社から4月に刊行されたばかりの本だった。夏葉社なら知っているが、この版元は知らない。驚くべきは3冊も入荷していたことで、異例の特別待遇といえるだろう。この書店は金沢にいくつか支店があって、ときどきこういう粋な仕入れをしてくれる。

シンプルな白い表紙に横書きのまま縦に印刷された「クレバスに心せよ!」という一風変わった書名。副題には「アメリカ文学」とあり、そのあとに読点をはさんで「翻訳と誤訳」という言葉が韻を踏んで(?)つづく。アメリカ文学の翻訳論のようだ。それらよりもさらに小さく控えめに記された著者名には「須山静夫」とある。どこかで見かけたことのある名前だが、どこでだったか思い出せない。帯に目をやればすぐに気づいたはずだが、妙な期待に気持がたかぶっており、そうするのも忘れて、本を開き、頁をぱらぱら捲る。そのうちに、ようやくそれが『クラレル』を翻訳したアメリカ文学研究者の名前であることが思い出されてきた。帯にはちゃんと『クラレル』の文字が載っているではないか。

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へなちょこ英語読みからしてみれば奇蹟のように思える『クラレル』の翻訳が完成してから13年、いつかは挑戦してみなければと思いながらも、その勇気と時間が持てないままに来てしまった。そんな折、その翻訳に魂の15年間を注いだ研究者の『クラレル』入門書といっていいかもしれない著書が目の前に現れたのだから、その恩恵に与るのは自然な流れ。あわよくば、『クラレル』を読んだ気分に少しだけなってやろうという魂胆もある。どこまでも浅墓ではあるが。

本書の目次は以下の通り。

・クレバスに心せよ
 1 ウィリアム・スタイロン 『闇の中に横たわりて』
 2 ウィリアム・フォークナー 『八月の光』
 3 フラナリー・オコナー 『オコナー短編集』
 4 フラナリー・オコナー 『賢い血』
 5 ハーマン・メルヴィル 『クラレル』
 6 ハーマン・メルヴィル 『白鯨』
・ハーマン・メルヴィル 『クラレル』論
 1 長詩『クラレル』の受けた書評、つまり酷評
 2 『クラレル』におけるメルヴィルの想像力は、死についての想像力である
・『クラレル』翻訳余禄
 1 『クラレル』の内容の概略、および『クラレル』の受けたアメリカでの書評
 2 『クラレル』論の執筆者たちのおかした誤解および誤読
 3 『クラレル』の原書に付けられた編者たちによる脚注のなかの誤り
 4 日本人研究者による誤訳

・『死海写本 イザヤ書』に分け入って
 1 須山のヘブライ語学習のいきさつ
 2 ダビデ王は息子アブサロムを愛していたか、憎んでいたか
 3 銀座教文館に展示してあるイザヤ書の複製
 4 死海写本とビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシアとの相違点

さしあたって関心のあるメルヴィルと『クラレル』の翻訳に関する水色の部分を読んでみた。この部分では、自身の翻訳も引用しながら『クラレル』の大まかな流れを紹介しているが、それらは「クラレルの作品論」というよりは、「クラレルの翻訳論」もしくは「クラレルの解釈論」といった内容かもしれない。扱われているテーマが宗教的なものであったりするので、内容的に理解の及ばない箇所もあるが、それでも常に死の影が見え隠れする作品の重い雰囲気は感じ取ることができる。

『クラレル』には「聖地における詩と巡礼」という副題がついており、聖都エルサレムを訪れるアメリカの青年クラレルを主人公とする。クラレルはエルサレムで様々な人物たちと出会い、揺らいでいた自分の信仰心を見つめ直す機会を得る。一方で、ルツという現地の女性と出会い、彼らは恋に落ちる。しかし、ルツの父親がアラブ人によって殺害されてしまい、喪中のあいだは、ユダヤの慣習によりルツとその母親に会うことができない。その合間の時間を埋めるべく、クラレルは巡礼の一行に加わり、10日間を彼女と離れて過ごすことになる。ところが、巡礼の旅を終えて戻ってくると、ルツとその母親までもが悲しみと熱病によって亡くなっていたことを知る。幸せを手に入れられるかに思えたクラレルは悲嘆に暮れる。「神よ、あなたは存在するのですか?」という言葉をつぶやき、その後しばらくはエルサレムにとどまり、いつしか街のなかに姿を消してしまう、というところで物語は終わるらしい。なかなか魅力的な内容だと思う。ただ、それが韻文という形で書かれているため、読むのはそう簡単ではないだろうし、原文ならなおさらそうであり、ましてやそれを翻訳するとなった場合にかかる苦労はいかばかりであろうか。

さて、題名にある「クレバス」とは、翻訳者が陥る誤訳のことを指す。本書では、自身のこれまでの誤訳を省みると同時に、他の研究者の誤訳を淡々と、しかし異様な細かさでもって記録していく。
訳文を読んで、少しでもおかしいと感じられたら、誤訳していると思わなければいけない。まあ、これでよかろう、と思ったら、もう駄目だ。まあ、とか、ろう、とかいう言葉は自分をごまかすためのものだ。そういうときには、その箇所のことはいったん忘れて、虚心になる必要がある。虚心になるためには時間がかかる。熱した頭で考えつづければいいというものではない。『クラレル』はむずかしい、とアメリカ人も、日本人も多くの人たちが言う。一ページに一箇所ずつそんなところがあれば、忘れたり考えたりをくりかえしているうちに、一五年ぐらいの時間はたちまち過ぎてしまう。(151-152頁)
さらには、1938年から1973年までに出版されたアメリカの研究者たちによる8冊の先行する研究書にあたり、かなりいいかげんな解釈や引用がなされてきたことを、敬意を払いながらも指摘していく。『クラレル』にはいくつかの版が存在していて、決定版とされる Northwestern Newberry Edition が発表されたのは須山氏が『クラレル』の翻訳を始めたあとだった。それまでの版(Hendricks House Edition)と決定版とのあいだに重要な異同を確認した須山氏は、あらためて決定版をもとにそれまでの翻訳を見直さなければならなかったという。誤字・脱字にはじまり句読点の位置の確認まで、細かく地道な作業が続いた。瑣末とはいえ、解釈に大きな違いを生じるものもあり、看過できなかったのだ。想像するだけで気が遠くなる。1999年に翻訳が出た後も、常に誤訳がないかと精査し続けたという。2006年に第2版が出たときには、初版の訳から改めた箇所が50箇所ほどあったようだ。須山氏は本書の2回目の校正中に急逝された。享年86。

本書では、瑣末な誤訳部分も含めて、単にそれらを書き出しているだけのように見えるので、読み物としての面白みに欠けるという批判はある意味当然である。とはいえ、それほど読者が多くないであろうこういう大作を訳した著者の真摯な姿勢と情熱の持続には敬意が払われるべきだろう。はっきり言って、あんまり売れないだろうが、このような本を出してくれた吉夏社には感謝したい。メルヴィルに心酔し、魂の半分をこの作家に売ってしまったつもりでいる私にとっては、なんともありがたい読書であったと言っておこう。

***

<おまけ①>
先月だったか、毎日新聞読書欄で荒川洋治氏が本書を取り上げられていた。「今週の本棚」らしい選書だろうし、一流の読み手によって書評が書かれたということ自体はすばらしいことだと思う。ただ、個人的に残念だったのは、その書評ではメルヴィルや『クラレル』の翻訳についてはいっさい触れられていなかったことだ。ま、いいんですけどね。

<おまけ②>
『クラレル』の版元の南雲堂といえば、数ヶ月前にチャールズ・オルソンという詩人の『マクシマス詩篇』なんてのを出版したばかり。これも自費出版なのだろうか。こちらは『クラレル』を超す1500頁の大冊である。価格は言わずもがな。チャールズ・オルソンがどれほどの詩人だったのかはよく知らないが、実はこの詩人には Call Me Ishmael というメルヴィル(の『白鯨』)理解の一助となる重要な書があるので、この詩人の名前をこちらの本で記憶しているというメルヴィリアンも多いはずである。もう半世紀以上も前に出た本だが、今読んでもけっこう面白く、いわゆる研究者が書いた本とは一線を画していると思う。ただし、オルソンはこの本の中で『クラレル』を「エイハブの太平洋は縮んでソドムの湖となった」と一蹴している。

<おまけ③>
先ごろ翻訳されたポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』には、『クラレル』についての博士論文を書こうとして結局書けなかったという主人公の甥が登場する。その箇所には、'Clarel --- Melville's gargantuan and unreadable epic poem' (p. 27) と書かれている。'unreadable' という評価が一般的な見方であることの1つの証。
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by anglophile | 2012-06-12 17:43 | 読書 | Comments(0)
2012年 06月 09日
21世紀の世界文学30冊を読む/英米小説最前線
最近は古本のプロポーションがやや減少気味だが、一方で先月後半から今月後半にかけて、個人的に注目している新刊、再刊、復刊が目白押しで、本屋に行くことばかり考える生活が続いている。それもまたよろし。

新刊で買ったうちの1冊が、都甲幸治『21世紀の世界文学30冊を読む』(新潮社)である。著者はアメリカ文学研究者で、柴田元幸氏の弟子筋にあたる人。『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』などを訳したり(共訳)している。都甲氏がどんな感じの人なのかあまりよく知らなかったのだが、YouTubeに上げられていたジュンク堂池袋店で今年初めに行われた作家のいしいしんじ氏とのトークセッション「越境する作家たち」をしばらく前に見て、なんか人の良さそうなお兄ちゃんといったような感じの人だったので好感を持ったのだった。ちなみに、このセッションはものすごく面白いです!

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さて、都甲氏の本は2008~2011年に『新潮』に連載されていた「生き延びるためのアメリカ文学」がもとになっている。この連載は「世界同時文学を読む」と名前を変えて現在も続いている。内容は、21世紀になってから出版された未邦訳の海外作品を紹介するというもの。書名にあるとおり、全部で28作家30冊の小説が取り上げられている。知らない作家が半分ぐらいいるので今後の指針の1つとして役立てたいと思う。基本的に英語で書かれた作品が挙げられているのだけれど、あえて「世界文学」と謳っているのは、アメリカなどの英語圏に移り住んでやがて英語で書くようになった他国生まれの「移民作家」が含まれるからだろう。唯一英語で書いていない作家としてロベルト・ボラーニョが入っていて、Nazi Literature in the Americas が紹介されている。ほんとのことを言うと、この本を買おうか迷ったのだけれど、ボラーニョのことが書かれていたので購入を決めた次第。
 今アメリカ合衆国で最も話題の作家と言えばもちろん、ロベルト・ボラーニョである。そんなのおかしいではないか、とあなたは思うかもしれない。チリで生まれ、メキシコで育ち、スペインで没したボラーニョ、しかもスペイン語で書かれた作品しかない彼が、なぜそれほどまでに合衆国で読まれているのか。しかも二〇〇三年には既に亡くなっているのに、と。答えは単純である。どの作品もずば抜けて面白いからだ。ボラーニョの作品を読めば、我々が今まで中南米文学に対して抱いていたイメージは粉々に砕けてしまうだろう。ボルヘスなど中南米文学の最良の部分をきちんと消化したうえで、これほど現代的な作品を書いている作家がいたのか。当たり前である。あのラテンアメリカ文学のブーム以来、僕らは何十年ものあいだ中南米の偉大な作家のリストを書き換えずに来た。そのせいで刺激的な文学との出会いをどれほど逃してきたことだろう。(141頁)
私も全部把握していないのだが、ボラーニョが亡くなったあと、遺品の中から大量の未発表原稿が出てきたらしく、それらが少しずつ日の目を見るようになって、それにあわせて英訳のほうも順次出版されている。日本ではボラーニョはまだ2冊しか訳されていないが、これからどんどん訳されていくことだろう。この Nazi Literature in the Americas は題名が恐そうなのでまだ買っていなかったが、都甲氏の紹介文を読んでぜひ読んでみたくなった。

各文芸誌の最新号が今週発売されているが、『新潮』7月号には都甲氏の本が発売されたのに合わせて柴田元幸氏との対談「世界文学はアメリカ文学である」が載っている。師弟対談ということで面白く読んだ。実は、未邦訳の海外作品を紹介するという連載は師匠の柴田氏も2007年から『ENGLISH JOURNAL』という語学月刊誌でやっている。連載のタイトルは「英米文学最前線」となっていて、「世界の最先端をいく小説の一節と、柴田先生のみごとな翻訳、そして書評と、1粒で3つの味が楽しめ」るようになっている。膨大な量の英米作品に接しているはずの柴田氏の読書生活の一端がうかがえてとても興味深い。「こんなの、読んでるんだ!」と、その読書の幅の広さにも毎回驚かされている。

で、最新7月号(表紙はメリル・ストリープ)を何気なくチェックしてみたら、「おおっ!」と思わず興奮の声をあげてしまった。なんとボラーニョの 2666 が取り上げられているではないか! なんか、あっちとこっちが結びついていたのでびっくりしてしまった。
 この人の小説を読んでいると、他人の悪い夢にまぎれ込んだらこんな感じだろうなあ、と思うことがよくある。夜更けに知らない町の怪しげな区域に行って、どこか邪悪な人間に出会い、夜が明けたときには何かが確実に損なわれている---そんな展開がくり返し現れる。
 しかも、ありていに言って、最後まで読んでも、「結局、何の話かよくわからなかった」と思うことが多い。にもかかわらず、読まされてしまう。それも、短篇のみならず長篇でも「何の話かよくわからない」ことが多い。
 遺作となった、5部構成、898ページに及ぶ大作『2666』も、一番長い第4部(281ページ)で、メキシコの町に住む女性が次々に殺害されていく話など、まさに先の見えない他人の悪夢から抜け出せなくなったような思いに囚われながら読者は読み進める。
 (中略)プロットにとっては周縁的と思える無数の逸話、脱線すべてが、中心以上の存在感をもって自己を主張している。「何の話かよくわからない」ことの強みが、今回はいつも以上に生きている。そもそも書名の『2666』は何を意味するのか? 今後数十年、このタイトルの寓意をめぐって議論が戦わされることだろう。
もうこれ以上の的確な説明は考えられないと思う。正直なところ、2666 がどんな小説なのかと問われると、答えに窮してしまうのだが、「まあ、読んでごらん、面白いから」としか言えない。ところが、柴田氏はそれでいいんだと言ってくれているよう。やっと心の中のモヤモヤが晴れたような感じがする。

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by anglophile | 2012-06-09 23:38 | 読書 | Comments(0)
2012年 04月 18日
Jay Rubin and J. Philip Gabriel on Translating Murakami
以下のページで、『1Q84』の英訳をしたジェイ・ルービン氏とフィリップ・ガブリエル氏の話が聴ける。

TWO VOICES: Jay Rubin and J. Philip Gabriel on Translating Murakami

早く読まないとね。
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by anglophile | 2012-04-18 10:20 | 読書 | Comments(0)
2012年 03月 05日
今日の立ち読み
仕事帰りに書店に寄る。何冊かチェックしておきたい本を立ち読みしに。まず、『ユリイカ』の最新号「特集・辞書の世界」を。三浦しをんさんの『舟を編む』が特集の契機になっているようだ。『舟を編む』もちょっと気になっている。さて、ぱらぱら立ち読みしただけだったが、高山宏さんの「Contradictory」という文章が『白鯨』の魅力に触れており、こちらの波長とぴったり合った。おまけに、八木敏雄さんの『マニエリスムのアメリカ』にも言及していたので興奮した。さしあたって、近いうちに『アリス狩り』に目を通さねばならない。

続いて、『池澤夏樹の世界文学リミックス』(河出書房新社)。『アブサロム、アブサロム!』のとこだけさっと目を通す。うーん、こんな解説本、売る意味があるのか? こういうのは文庫目録などと並列して無料で配るべし。

あともう1冊、北川健次さんの『絵画の迷宮』(新人物往来社文庫)を探したが、まだ入ってきてないようだった。それもそのはずで発売は3月8日(水)だった。この本はかつて『「モナ・リザ」ミステリー』として新潮社から発売された単行本の文庫化だが、「驚愕の新事実」が加筆されるのでタイトルを一新された由。『ダ・ヴィンチ・コード』とかは観ておいた方がいいのだろうか。

そういえば、池澤夏樹の『マシアス・ギリの失脚』の英訳版が近々出版されるそうだ。これはアルフレッド・バーンバウム氏の翻訳によるもので、数年前に氏が『翻訳家の仕事』(岩波新書)でその翻訳作業について書かれていて、ずっと興味を持っていたのだった。タイトルは、The Navidad Incident: The Downfall of Matías Guili となるらしい。こちらは購入を検討しよう。
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by anglophile | 2012-03-05 22:09 | 雑記 | Comments(0)
2011年 10月 26日
1Q84
夏場に活字を浴び続けたためか、最近は読書のペースが緩やかである。そんな折、Haruki Murakami の 1Q84 (Knopf, 2011) が届いた。買ったのは、日本版3巻が1冊にまとめられているアメリカのクノップ社版。一方、UK版が2冊に分けて発売されたのは不思議でしかたがない。商業的にどういうメリットがあるのだろう。訳者が2人だからというのはわかるが、それだと2冊分の金額がかかるから、1冊にまとまったアメリカ版の方が絶対にお得だとおもうのだけど。それに、900頁を超えるボリュームは何ものにも代え難い。300頁と600頁だとなんだか中途半端。根拠はないが、とにかく洋書は分厚いのがよい。枕になりそうやつが。

表は青豆。
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裏は天吾。
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パラフィン紙のようなカバーを外すとこんな感じ。青豆。
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天吾。
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by anglophile | 2011-10-26 21:59 | 読書 | Comments(0)
2011年 03月 26日
L'analphabète
昨日買った『桜庭一樹読書日記―少年になり、本を買うのだ。』を読んでいると、いかに自分の読書範囲が狭いかがわかるような気がする。食わず嫌いを反省させられる。

さて、そんななかで、興味をそそられる本がいくつかあった。その1冊に、アゴタ・クリストフの『文盲-アゴタ・クリストフ自伝』がある。この人の『悪童日記』などはよく古本屋で見かけるが、ベストセラー系の本にはほとんど手が伸びないので、内容もよく知らない。クリストフは1935年にハンガリーに生まれ、本好きの少女時代を過ごす。21歳の時に、ハンガリー動乱が起こり、フランス語圏のスイスに亡命。その年齢にして、未知なる言語であるフランス語との格闘が始まるが、やがてそれを習得する。そこらへんのくだりがおもしろそうなのだ。
 この短い自伝(ぜんぶで八十ページちょっと。自伝としては破格の短さだと思う)には、活字中毒の若い女が、言語を奪われて、異国で新しい言語と闘いながら大人になっていき、その闘いに勝つにつれて自分の中核を為すはずの最初の言語を喪失していく過程と、もどるべき祖国をなくしてみんなで漂流しながら容赦なく老いていく不安とが、寄せて返す波みたいに交互にやってきて、揺さぶる。(53頁)
そのうち「ブ」あたりで見つけられそうな気もするが、この本は英語で読みたいなあとおもい、調べてみたら、なんと英訳は出ていない模様。一方、ドイツ語とイタリア語版はある。

古本で邦訳を見つけるのと、英訳が出るのとどちらが早いだろうか。
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by anglophile | 2011-03-26 14:36 | 読書 | Comments(0)
2010年 12月 07日
Kurodahan Press
昨日、伊藤人譽の『人譽幻談』について書いているときに、英語の uncanny という形容詞をふと思い出した。この単語は「怪奇物」を表すときによく使われる言葉で、例えば、"uncanny literature (または the literature of the uncanny)" (怪奇文学)とか、"the uncanny in literature" (文学における怪奇なるもの)というように使われる。theが付いているのは、「the+形容詞」で「~な人、~なもの」を表す受験英語ではおなじみの用法。"the uncanny" で「不気味なもの」ぐらいが原意である。「不気味」や「不思議」を意味する言葉としては、strange の方がより一般的かもしれないが、こちらも同様の形で使われることが多いようだ。これらの単語以外に、weird や bizzare なども日常的に口語としてよく使われているが、文学や文学作品と関連して使われることはあまり多くないようにおもう。ちなみに、かの有名な『ジキル博士とハイド氏』の原題は The Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde である。

で、そんな感じで uncanny という言葉について検索をしていたら、すごく興味を惹かれる日本文学の英訳本シリーズの存在を知ったのでここに紹介しておきたい。

Kaiki: Uncanny Tales from Japan (Kurodahan Press)

Kurodahan Press なんてちょっと風変わりな名前だなあとおもったが、どうやら福岡県に本拠を置く出版社のようだ。2002年に、日本在住の外国人の方々で立ち上げたということだ。福岡県なので「黒田藩プレス」となったらしい。おもしろい。HPもあるようなので、こちらをどうぞ。

すでに、江戸川乱歩や吉行淳之介の英訳本を出版しているようだ。特に、「怪奇物」に力を入れているようで、上記の Kaiki シリーズの刊行が始まっている。3巻本のうち、すでに Volume 1 と Volume 2 が出ており、Volume 3 は出版が少し遅れているものの、来春には刊行されるとのこと。各巻の内容は以下の通り。

Kaiki: Uncanny Tales from Japan, Volume 1: Tales of Old Edo

・Lafcadio Hearn, "The Value of the Supernatural in Fiction" (1898)
・Lafcadio Hearn, "In a Cup of Tea" (1902)
・上田秋成 「菊花の約」 (1776)
・京極夏彦 「旧耳袋」 (2005)
・宮部みゆき 「布団部屋」 (2000)
・岡本綺堂 「笛塚」 (1925)
・田中貢太郎 「竈の中の顔」 (1928)
・幸田露伴 「幻談」 (1938)
・稲垣足穂 「稲生家=化物コンクール」 (1972)
・山本周五郎 「その木戸を通って」 (1959)
・杉浦日向子 「闇夜の怪三話」 (1993)


Kaiki: Uncanny Tales from Japan, Volume 2: Country Delights

・柳田國男 『遠野物語』より「序」「第三話」「第七話」「第八話」 (1910)
・夏目漱石 『夢十夜』より第三話 (1908)
・泉鏡花 「海異記」 (1906)
・平井呈一 「真夜中の檻」 (1960)
・高橋克彦 「大好きな姉」 (1993)
・内田百閒 「短夜」 (1921)
・小松左京 「くだんのはは」 (1968)
・日影丈吉 「猫の泉」 (1961)
・中島敦 「木乃伊」 (1942)
・秋山亜由子 「一人娘」 (1992)


Kaiki: Uncanny Tales from Japan, Volume 3: Tales of the Metropolis

・谷崎潤一郎  「人面疽」 (1918)
・豊島与志雄  「都会の幽気」 (1924)
・江戸川乱歩  「目羅博士の不思議な犯罪」 (1932)
・村山槐多 「悪魔の舌」 (1915)
・芥川龍之介 「奇怪な再会」 (1921)
・皆川博子 「文月の使者」 (1996)
・久生十蘭 「妖翳記」 (1939)
・川端康成 「片腕」 (1964)
・遠藤周作 「蜘蛛」 (1959)
・山川方夫 「お守り」 (1960)
・赤江瀑 「八雲が殺した」 (1981)
・諸星大二郎  「不安の立像」 (1973)

なかなか良さそうなラインナップで、日本文学の英訳アンソロジーを蒐集している者にとっては、見逃せないシリーズと言えよう。Volume 1 には露伴の「幻談」が入っているし、Volume 3 には十蘭の「妖翳記」が入っている。どのような英語に訳されているのか興味津々。アマゾンでも買えるようなので、いずれ注文することになりそうな気がする。ちなみに、これらのシリーズは東雅夫氏が編集し、解説(註)を書かれている。
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by anglophile | 2010-12-07 14:35 | 読書 | Comments(0)