タグ:堀江敏幸 ( 19 ) タグの人気記事

2012年 03月 17日
午後から出動
午前中は有意義な出勤。午後から自主的出張が入っていたが、めんどくさいからサボったれ。代わりに、明日の「ポッケまーと」に持っていく小型の本棚を買いにホームセンタームサシへ。よさそうなのがあったけど、類似品と比較したいので保留にして、次に御経塚のニトリに行った。だが、ニトリには手頃なのがなかったので、その近くのブックオフで手頃な古本を買うことにした。

・青山二郎 『青山二郎全文集(上)(下)』 (ちくま学芸文庫)
・澁澤龍彦 『澁澤龍彦 西欧作家論集成(上)(下)』 (河出文庫)
・澁澤龍彦 『幸福は永遠に女だけのものだ』 (同上)
・青山光二 『青春の賭け 小説織田作之助』 (講談社文芸文庫)
・『別冊太陽 乱歩の時代 昭和エロ・グロ・ナンセンス』 (平凡社)

「文庫2冊500円」で6冊。その他、日替わりセールとして雑誌が半額だったので、700円でも安い『乱歩の時代』がさらに半額になった。もちろん付録付きだ。

そのあとホームセンタームサシに戻って本棚を買う。あわせてプラスチック製の収納ケースも買う。これにて用事はだいたい済んだが、帰りに明文堂書店に寄って新刊チェック。1冊購入。

・堀江敏幸 『振り子で言葉を探るように』 (毎日新聞社)

『本の音』は難しそうなのでスルーしたが、これなら読めそう。索引や初出一覧もちゃんと載っていて、充実の書評集ではないだろうか。

さて、明日は「ポッケまーと」だ。持っていく本はだいたい決めたので、これから値付け作業に入ろう。
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by anglophile | 2012-03-17 19:30 | 古本 | Comments(0)
2011年 06月 17日
久々に図書館へ
職場の同僚のひとりが読書好きで、仕事の合間にときどき本の話をする。先日、好きな作家について訊かれたので、久生十蘭の名前を挙げた。読んだことがないということだったので、その数日後、『久生十蘭短篇選』(岩波文庫)をお貸しした。ぜひ、「湖畔」を読んでくださいね、と言って渡したのだったが、よく考えたら「湖畔」は岩波文庫には入っていなかった。ということで、引き続いて『怪奇探偵小説傑作選(3)久生十蘭集』(ちくま文庫)をお貸しすることに。次の日、感想を聞く。そうしたら、今度は私の方が肝心の話の筋を忘れており、話がかみ合わない。すいません、ということで、「湖畔」を再読することになった。

ちょうど1年前に、刊行中の定本全集の第1巻を借りたのだったが、『魔都』を読んで力尽き、残りの4篇を読まずに返したのが気になっていた。この第1巻には「湖畔」も収録されていることだし、ちょうど都合がいいので、ふたたび図書館で借り出すことにした。

・『定本 久生十蘭全集 1』 (国書刊行会)
・『定本 久生十蘭全集 2』 (同上)
・山田稔 『マビヨン通りの店』 (編集工房ノア)
・堀江敏幸 『本の音』 (晶文社)

4冊も借りちゃった。速やかに第1巻を終え、第2巻に移りたいものだ。とかいってる端から、『マビヨン通りの店』を先に読んでしまった。めっちゃオモロイではないか!
 [京都一中時代の同人誌「結晶」の]三号は表紙に、パスカルの文句とともに、目次が掲げてある。島田和子、寺田和子、赤木郁と三人の女性の名が見える。十月に男女共学になった鴨沂高校で、「フェミニスト」の小堀が早速獲得した女性同人たち。そのうちのひとり、詩「メルヘン」の作者の寺田和子は、現在の小堀夫人。つまり彼は詩と作者の両方を同時にゲットした、まさにゲッツーである。(72-3頁)
「ゲットした」という言葉には少々鳥肌が立つ方だが、山田稔が使うと意外性があっておもしろい。ゆえに、鳥肌も立たない。今度から自分も「ゲットした」と言ってみようかとおもってしまう。
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by anglophile | 2011-06-17 00:13 | 読書 | Comments(4)
2011年 05月 27日
ぼんじゅ〜る、ふらんす 鹿島茂×堀江敏幸
池袋のジュンク堂で開かれたという鹿島茂さんと堀江敏幸さんのトークイベントの模様が白水社経由で YouTube にアップされていた。

http://www.hakusuisha.co.jp/news/2011/05/post_326.html

堀江さんのデビュー作『郊外へ』にまつわるエピソードなど、お二人がどのような形で知り合われたかという話がおもしろかった。
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by anglophile | 2011-05-27 23:28 | その他 | Comments(0)
2010年 12月 19日
雑記
◆アマゾンで、定期的に『1Q84』の英訳版の情報をチェックしているが、ついに出版予定日が掲載されていた。来年の9月になるそうだ。まだ先だなあ。出版社は、Harvill Secker。もう少し様子を見てから、注文ボタンを押してみたい。

◆毎日新聞の読書欄“2010年「この3冊」”で、堀江敏幸さんが『昔日の客』を挙げていた。一方、朝日新聞の方では、阿部和重の『ピストルズ』を2人の方(鴻巣友季子さんと斉藤環さん)が挙げており、それはちょっと褒めすぎではないかとおもった。

◆集英社の広告に、『コレクション 戦争×文学 全20巻別巻1』という全集ものが載っていた。来年6月から刊行が始まるらしい。どんな内容か興味がある。1月号の『青春と読書』に収録作家が紹介されているらしい。明日、チェックしてみよう。

◆なぜか、はっきりした目的もなく、夜中の「ブ」に行ってしまう私。関川夏央さんの『女流 林芙美子と有吉佐和子』(集英社文庫)と『家族の昭和』(新潮文庫)を買う。半額セールにより、2冊で200円。

◆アマゾンに注文していた洋書のうちの1冊が届いた。なんで1冊なのに大きい箱で届くのかなあ。まあ、いいんですけど。届いたのは、リョサではなく、こちら。
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サルマン・ラシュディのエッセイ集。元版は1991年に出ていて、このVintage版は今年出たもの。装幀がすばらしい。内容は、けっこうボリュームがある。前半はインド関係の話、後半は書評集となっていて、つまみ読みに適していそうだ。リョサの『世界終末戦争』の書評も載っている。これはあとのお楽しみにとっておこう。
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by anglophile | 2010-12-19 23:04 | 雑記 | Comments(0)
2010年 12月 05日
ひねもす読書
明日からの多忙を極めるだろう1週間に備えて、家でゴロゴロする。

堀江敏幸『河岸忘日抄』読了。3週間かかった。なんとなく新潮文庫の刊行順に読み始めたのだが、『いつか王子駅で』や『雪沼とその周辺』とちがって、語りがより思弁的になっているのでぐいぐい読み進むというわけにはいかなかったが、一方で「待機」や「ためらい」といったモチーフについて語られる部分は深く共感することが多かった。
 たとえばこれが一篇の物語なら、いま、彼のなかでなにかが終わり、なにかがはじまろうとしていた、と簡単に書き記すことができるだろう。残念ながら、彼の脳裡にそのような意味での起承転結が組み立てられる余地はなかった。心の内爆は、いつかまた起こる。そして、起きたら起きたで、ふたたびそれを鎮めることもできるだろう。彼のなかに住んでいるジャックは、豆の木の頂上までのぼりつめ、鬼もなにもいないただの雲を垣間見ただけで、さっさと舞い戻ってくるにちがいないのだ。高い高い目的地の一角に手を触れてすぐ戻ってくるこの往復こそがたぶん日々を送ることであり、日々を重ねることだからである。終わりはない。そして、はじまりもない。あるのは酸っぱくて舌を縮ませるスグリの果実がみのるまでの、ながく単調な、そしてかけがえのない持続だけである。大家の死をなにか大きな区切りのように見なしてしまえば、微妙な往還運動がそこで止まってしまうのだ。(388-389頁)


ところで、今朝の朝日新聞の読書欄に、龜鳴屋さんの『したむきな人々 ~近代小説の落伍者たち~』が紹介されていて、おおっ!と声を上げる。購入済みなのに、まだ読んでないのが情けない。そんなことを考えていたら、この前お会いしたときにお話を聞いた伊藤人譽『人譽幻談 幻の猫』が気になって、さっそく「髪」を読み始めてみたのだった。
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by anglophile | 2010-12-05 17:57 | 読書 | Comments(0)
2010年 12月 02日
堀江敏幸 『河岸忘日抄』(5)
「ためらうこと」について。
ためらいの専門家を求める企業があれば、彼はすぐにも採用されるにちがいない。ためらうことの贅沢について、彼はしぶとく考えつづけている。ためらう行為のなかに決断の不在を見るのは、しかしあまりにも浅はかだ、といまの彼は思うのだった。「あたりまえの感覚」の鍛え方に想いを馳せ、逡巡を持続と言い換えてその場その場をしのいできたのは事実だが、その場しのぎがひとつの決断でなくてなんだろうか? ためらいとは、二者択一、三者択一を甘んじて受け入れ、なお体に深く残留する疲労感のようなものだ。(226頁)

「音引き」について。
そういえば、気象通報でヘクトパスカルという単位が用いられるようになったのは、いつのころだろう。『パンセ』と名づけられた断片を残し、圧力の単位にその名を与えてくれたパスカルへの敬意は不変だとしても、これまで慣れ親しんだミリバールの音への執着が、あたらしい音の侵入をどうしても拒む。一ヘクトパスカルは一ミリバールに等しい。等しくなければ、こんなにあっさりと単位のすげかえはできない。そこには区画整理や吸収合併による町の名前の消失とよく似た寂しさがある。「リ」と「ル」の強さを軽減する音引きがなくなったことで、台風接近を伝える気圧の響きはより硬くなり、低気圧のくせに高圧的なものいいになった。ミリバールの音引きのゆるやかさが失われたとき、気象通報は彼のなかでその性質をよからぬ方向に変えてしまったのである。ヘクトパスカルは、気象の怒りやいらだちを押しつける。(238頁)

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by anglophile | 2010-12-02 10:11 | 読書 | Comments(0)
2010年 11月 30日
映画『海炭市叙景』
映画『海炭市叙景』の公式サイトをちょくちょく見ているが、劇場公開情報が載っていて、金沢では2月にシネモンドで公開されるらしい。楽しみ。

また、新しく作られた映画チラシには、堀江敏幸が文章を寄稿しているらしい。今の自分には超ストライクな話題なので、読みたい、読みたい、読みたい。シネモンドに行ったらあるかな?
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by anglophile | 2010-11-30 09:32 | 映画 | Comments(2)
2010年 11月 26日
コーヒーあれこれ
今日も『河岸忘日抄』より。
 ほほう、これがそのガラパゴスかね、と大家は世話役の女性が淹れてくれた彼の手土産をちょっとだけ含んでその香りをしばし味わってから、濃い茶色の唾液を勢いよく飛ばして、なかなかいい、これまで知らずにいたのがもったいないような、不思議な味わいだな、甘くて、こくがあって、ほんの少し苦みと酸味もある、果物の味も混じってるようだが、きみは、どう思うね? 芳醇な赤ワインのようじゃないか、ありがたく頂戴しておこう。だが、ひとつ、訊いておきたいことがある。なんでしょう?と彼は老人の耳もとで大きく応えて身構える。この豆は、はるかガラパゴスの島から、どうやって運ばれてくるんだね、麻袋か、樽か、どっちだ? わかりません、と彼は正直に応えた。(97頁)
私はコーヒーには砂糖もミルクも入れるのだが、上に引いたように、『河岸忘日抄』の主人公がガラパゴス島で採れたコーヒー豆を、借りている「家」の大家に贈りものとして贈るという場面を読んで、妙においしそうなので、それが影響してかどうか、昨日からブラックでコーヒーを飲み始めた。心なしか、私の飲むコーヒーからも果物の香りがしてくるように感じる。

しかし、ブラックといっても、私はミルクは入れる。ミルクが入っていても砂糖が入っていなければそれをブラックと称するのは日本だけなのか。たしかに、砂糖もミルクも入れたコーヒーだけを飲み続けてきた私にとっては、「ブラック」というのは「甘くない」ということと同義で、ミルクが入っていてもいっこうに構わない。英語の辞典で black を引くと、without milk とあった。欧米では、砂糖が入っていてもミルクが入っていなければブラックのようだ。日本と逆なのがおもしろい。

さて、そんな感じで「ブラック」な路線をしばらくは貫こうとおもっていたので、今日は職場で飲む自販機の缶コーヒーも無糖にしてみたが、果物の香りがまったくせず、ちょっと鼻白む。ぜんぜんガラパゴスな感じがしない。缶の形はちゃんと樽の形をしているのになあ。惜しい。結局、カフェオレをそのあと飲んでしまった。

ところで、ミルクといえば、スチュアート・ダイベックの短篇「ペット・ミルク」を思い出す。
Today I've been drinking instant coffee and Pet milk, and watching it snow. It's not that I enjoy the taste especially, but I like the way Pet milk swirls in the coffee. Actually, my favorite thing about Pet milk is what the can opener does to the top of the can. The can is unmistakable — compact, seamless looking, its very shape suggesting that it could condense milk without any trouble. The can opener bites in neatly, and the thick liquid spills from the triangular gouge with a different look and viscosity than milk. Pet milk isn't real milk. The color's off, to start with. My grandmother always drank it in her coffee. When friends dropped over and sat around the kitchen table, my grandma would ask, "Do you take cream and sugar?" Pet milk was the cream.
ネトッとしたペット・ミルクの質感が手に取るようにわかるすばらしい書き出しだ。ついつい練乳を連想してしまうが、さすがに練乳はコーヒーに入れないだろうなあ。ちなみに、ダイベック自身によるこの短篇の朗読を、『柴田元幸 ハイブ・リット』(アルク)で聴くことができる。
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by anglophile | 2010-11-26 16:43 | 読書 | Comments(0)
2010年 11月 23日
直列型と並列型
堀江敏幸『河岸忘日抄』より。
で、ほら、先生が並列と直列の二種類で、電球の明るさを確認させるでしょう? まず並列つなぎをして、それから直列にする。ぱあっと電球が明るくなる。その瞬間、生徒たちから賛嘆の声があがり、先生は自分の発明でもないのに得意げな顔をする。そこまでは、いいですね? ええ、と彼はほとんど機械的に言葉を継いだ。たしかに、おおっという声があがって、教室がしばし華やいだ記憶が彼にもあったのだ。でも、ぼくには納得いかなかったんです、ぼくがびっくりしたのは、並列つなぎのほうだったんですよ、足し算が足し算にならない、そんな不思議なことが起こるのかって。ところが並列つなぎに魅せられたのは、クラスでぼくひとりだった。それがもっと不可解でね。考えてみれば、明るくなるほうがやっぱり見栄えもいいし、わかりやすいし、まあ華やかなんです。並列はすなわち現状維持ってやつですよ。直列の夢に毒されて容量を度外視し、やみくもに足し算をつづければコイルが焼き切れる。それなら電池を節約しながら現状を維持したほうがいいのではないかと思うんです。だからあの基礎的な実験でどちらに声をあげるかが、ひとを判断するぼくのごく個人的な基準になってるんですよ。怒るかもしれないけれど、きみは並列でしょう? 彼はひと呼吸置いて、そのとおりですね、とうなずいた。(90頁)

変わって『正弦曲線』(中央公論新社)より。
 サイン、コサイン、タンジェント。この秘密の言葉で始動する波のうねりは、なんだかんだ言って幅が限られている。プラスとマイナスが交互にやってきたとしても極端には崩れず、振幅が決まっているから、思い切った行動には向かない。しかし、フィールドの限定が、結果的に--目的が先にあるのではない--均衡を生み出すための、大切な要素になっている。
 日々を生きるとは、体内のどこかに埋め込まれたオシロスコープで、つねにこの波形を調べることではないだろうか。なにをやっても一定の振幅で収まってしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見いだし、夢想をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ。(6-7頁)

再び『河岸忘日抄』より。
いまの世の流れは、つねに直列である。むかしは知らず、彼が物心ついてからこのかた、世の中はずっと直列を支持する者たちの集まりだったとさえ思う。世間は並列の夢を許さない。足したつもりなのに、じつは横並びになっただけで力は変わらず温存される前向きの弥縫策を認めようとしない。流れに抗するには、一と一の和が一になる領域でじっとしているほかないのだ。彼はその可能性を探るためだけに慣れ親しんだ土地を離れて、不動のまま、並列のままなおかつ移動しさまよい歩く矛盾を実践しようとしたのではないか。(91-92頁)

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by anglophile | 2010-11-23 22:33 | 読書 | Comments(0)
2010年 11月 19日
一箱古本市の準備のことなど
今月の一箱古本市@源法院も来週末に迫ってきた。8月から数えて4回目、今年はこれが最後のようだ。さすがに冬の季節に屋外というのはキビしいのだろう。来週末、少しでもいい天気になりますように。

現在、出す本を少しずつ段ボールに入れている。基本的に「文学路線」は変えないつもり。9月の第2回のときにこんなことがあった。あるお客さんが順番に向こうの方から箱を見て回って来られて、やがて自分の箱の前へ。開口一番、「うーん、こちらも活字が多そうですねえ」とおっしゃり、私は苦笑い。どうやら少し軽めのものをご所望だったらしい。あらら、それならもう少しそういう本を持ってくればよかったともおもったが、でもやっぱり小説(ときどき、詩)を読むのが好きだから、この「活字が多そう」な路線は変えたくない。

そう言ってしまったからには、なんとしてでも堀江敏幸『河岸忘日抄』を読み進めねばなるまい。昨日は仕事が忙しく、一日お休み。今日は少しだけ読むことができた。密度が濃すぎてスイスイとは行かないが、でもこの作家が言葉について語っている文章はゆっくり味わいたいものだ。例えば、次のような文章。
 男女両性を有する単語ならずとも、隠され、眠っていたもう一方の意味が、なにかをきっかけにして不意に姿をあらわす瞬間ほど恐ろしいものはない。ひとに教えられたり、書物のなかでたまたま発見したりするのでなければその存在すら気づかなかったはずの言葉の裏面。百八十度異なる意味ではないとしても、彼にはそういう単語が巧妙に仕込まれた時限爆弾のように、あるいはまた、むこう側とこちら側とでそれぞれ正しい顔をつくっている二重スパイのように感じられてならないのだった。手にしていた言葉がくるりと裏返ってべつの存在になりかわり、遠いところへ行ってしまう恐怖感。(57頁)
この部分を含めた第4章の始まりの数頁がおもしろい。「サジテール」というフランス語には2つの異なる意味があるのだそうだ。そのことについて語るとき、作家の言葉に対する感度が最高潮に達する。うまいなあ、とおもう。

さて、堀江さんは現在早稲田大学で教えていらっしゃるが、いろいろ検索してみたら、「小説とも随筆ともつかない--ただ自分の書きたい文章を綴る」という文章を見つけた。これは早稲田の学生に向けて書かれた文章のようだ。特に、創作科の学生を対象としているのであろう。
回り道というと大げさかもしれないけれど、30歳過ぎてから、あるいは40歳、50歳になってから、ふと書きたくなるときが来るかもしれない。人によって時期は違うでしょうが、書きはじめるタイミングを逃さないでほしいと思っています。その段階で書く力があれば、書ける。書けなかったら、次の機会まで待てばいいんです。そのためには、好きな文学とのつきあいを止めないで、働きながらでも、ずっと本を読み、本好きの人たちとの対話を続けてほしい。その情熱をもち続けていれば、いつか書ける力が溜まって、書きはじめられるはずです。
こういう力強い言葉は、ずっと胸のうちに持ち続けていたいとおもう。
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by anglophile | 2010-11-19 01:44 | 一箱古本市 | Comments(0)