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2012年 01月 01日
元旦
        西脇順三郎

ああなんと
春ランの香る
はてしなくめぐる
この野原にさすらう
人間のために
あかつきの土の杯に
霜の濁酒をそそいで
今朝の天空の光りを祝う
なんという栄華か
豆のかゆをすすつて
あつい生命のほとばしる
みなもとをひそかに祝う
ああ遠くつるのなく音に
旅人はふるえる
ふるさとへ永遠の回帰か
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by anglophile | 2012-01-01 13:06 | その他 | Comments(0)
2011年 05月 27日
ぼんじゅ〜る、ふらんす 鹿島茂×堀江敏幸
池袋のジュンク堂で開かれたという鹿島茂さんと堀江敏幸さんのトークイベントの模様が白水社経由で YouTube にアップされていた。

http://www.hakusuisha.co.jp/news/2011/05/post_326.html

堀江さんのデビュー作『郊外へ』にまつわるエピソードなど、お二人がどのような形で知り合われたかという話がおもしろかった。
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by anglophile | 2011-05-27 23:28 | その他 | Comments(0)
2010年 12月 04日
河北潟へ
野鳥観察など一度もしたことがないのに、なんとなく野鳥を見に行こうか、ということになって、河北潟まで行ってきた。
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曇り空の河北潟。
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後ろを振り向くと、内灘のサンセットブリッジがある。この左側には金沢医科大学病院がある。ここに来ると、今夏に亡くなった祖母が数年前にこの病院に入院していたことを想い出す。右側には運動公園があり、何回か子どもを連れて行ったことがある。
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鳥たちの姿が遠くて点にしか見えないので、河辺へ移動。これはカモ?何ガモ?
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ハクチョウ?コハクチョウ?
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デジカメ程度じゃ、これぐらいの大きさが精一杯。私の野鳥に関する知識も「白ければハクチョウか」程度。でも、この鳥が時折飛び立ち、川面を優雅に旋回する姿はなかなか壮観だった。写真を6枚撮ったところで、デジカメのバッテリーが切れ、私たちの「野鳥観察」も終了。

ところで、内灘といえば、主人公が内灘海岸を訪れる車谷長吉の短篇「漂流物」を想い出す。そこから何か引こうかとおもったが、肝心の本(新潮文庫)が見当たらない。まあ、いいか。この短篇は、イギリスにいるときに、たまたま取り寄せた『文学界』(平成6年)に載っていて読んだのだったなあ。異国の土地で、初めてその名を知った作家が、自分の出身県にある地名に言及しているのを読み、郷愁にかられたものだ。

あのときの『文学界』は、実家にまだ捨てずに置いてあるだろうか。
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by anglophile | 2010-12-04 21:56 | その他 | Comments(0)
2010年 11月 22日
看板(1)
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by anglophile | 2010-11-22 23:27 | その他 | Comments(2)
2010年 10月 18日
洋ナシケーキ   
昨日までの3日間、夜中近くまで働いていたため寝不足でフラフラだった。そこをなんとか乗り切って、本日は「救済措置」としての代休。アラーム機能不要な午前10時半起床は心地よく、寝不足を幾分か解消できた。それでも不意の電話で一時仕事場に行くことになり、ちょっといろいろあって未解決のままだったが1時間ほどで逃げてきた。すんなり行かないところがもどかしいよ。

すっきりしないので、「伝説のスーパーにある古本屋」に行ってきた。が、ほとんど収穫なし。残念。

帰りに、武蔵が辻の「フルーツむらはた」に寄る。先週も寄ったのだが、その時はお目当ての洋ナシケーキはすでに売り切れていた。私はケーキはほとんど食べないが、ここの洋ナシケーキはむかしから大好物である。人気があるのか、この洋ナシケーキは夕方まで売れ残っていることはほとんどなく、買いたければ早めの時間に行かなければならない、ということがこれまでの経験によって判明している。今日は行ったのが午後3時過ぎだったため、かろうじて3つだけ残っていた。当然、3つ全部いただく。

帰宅して、洋ナシケーキを食べながら、Colm Toibin のMothers and Sons を読み継ぐ。まだピン!とくるところに出会わない。おかしいなあ。期待しすぎだったか。でも、久しぶりに食べる洋ナシケーキはおいしかった。夕食後にも1つ食べたので、あと1つしか残っていない。
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by anglophile | 2010-10-18 23:32 | その他 | Comments(0)
2010年 05月 21日
内田樹ブログより
内田ブログに興味深い話があったので個人用にここに貼り付けておこう。(古本とは関係ありません)

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リンガ・フランカのすすめ

大学院のゼミで、シェークスピアの受容史について論じているときに(いったい何のゼミなんだろう)通訳翻訳コースの院生から、私の論の中にあった「言語戦略」という概念についての質問を受ける。
言語は政治的につよい意味を持っている。
母語が国際共通語である話者は、マイナー語話者(たとえば日本語話者)に対してグローバルな競争において圧倒的なアドバンテージを享受できる。
なにしろ世界中どこでも母語でビジネスができ、母語で国際学会で発表ができ、母語で書かれたテクストは(潜在的には)十億を超える読者を擁しているのである。
自国のローカルルールを「これがグローバル・スタンダードだ」と強弁しても、有効な反論に出会わない(反論された場合でも、相手の英語の発音を訂正して話の腰を折る権利を留保できる)。
だから、自国語を国際共通語に登録することは、国家にとって死活的な戦略的課題である。

ご案内のとおり、20世紀末に、インターネット上の共通語の地位を獲得したことによって、英語は競合的なヨーロッパ言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語)を退けて、事実上唯一の国際共通語となった。
世界中どこでもグローバルな競争に参加するためには英語を習得することが義務化している。
そして、その「グローバルな競争」なるものは「英語を母語とする人々」がすでにアドバンテージを握っている「構造的にアンフェアな競争」なのである。
一言語集団にこれほどまでの競争上のアドバンテージが与えられたことは、人類史上おそらくはじめてのことである。
ことの良否はわきに置いて、まずそのことを事実として認めよう。

多くの人はリアリストであるので、「では英語を勉強せねば」と考える。
そして、英語学習に励むことになるのであるが、その場合にマイナー言語を母語とする英語学習者に示される学習方法は、ほとんど例外なしに「オーラル・コミュニケーション」を中心にしたものとなる。
「会話はいいから、まず文法と講読を」ということを言う英語教育者はきわめて少数である。
誰もが「まず発音」と言う。
なるほど。
だが、このような学習法の提案がもっぱら英語を母語とする人々から提言されていることを見落とすべきではない。
なぜ、彼らは「オーラル重視」ということ「ばかり」言うのか。
彼らは英語が国際共通語になり、多くの人が英語を解することからもちろん利益を得ている。
なにしろ、世界中どこに行ってもIs there anyone who can speak English? と問えばだいたいの用事は済むのである。この問いに誰も答える人がいなければ、肩をすくめて「野蛮人の国に来ちまったぜ」とひとりごとをいえば気持は片付く(用事は片付かないけど)。
けれども、英語が国際共通語になり、自在に英語を使う人間がある程度以上の人数を超えた時点で「英語を母語とする国民」が現在享受しているアドバンテージは失われる。
当然である。
それが国際共通語になった国語のかかえる「背理」である。
自国語が国際共通語であることは自国民に多くの利益をもたらす。
けれども、国際共通性があまりに高まると、その利益は失われる。
国際共通語には「損益分岐点」が存在する。
それは「こちらの言うことは向こうに通じるが、向こうが耳障りなことを言い出したらこちらには通じなくなる」程度の英語力である。
それが非英語圏の人々がとどめおかれるべき理想的な英語力レベルなのである。
外交交渉でも、ビジネスシーンでも、国際学会でも、英語話者がしゃべる話はその場の全員が理解できて当然であるのだが、非英語圏の人間が話すことについては英語話者は「まるで幼児の話を聴いているような見下し目線」をとることが許され、「何を言っているのかわからない」といってリジェクトする権利が留保されている、そのような非対称的な言語状況においてはじめて自国語が国際共通語になったことによって得られる利益は「最大化」する。
だから、私がいまアメリカ国務省の小役人で、言語を戦略的に考えるポストにあれば、「非英語圏の人間には、オーラル中心の語学教育法を勧奨すべし」というレポートを長官に提出するはずである。

なぜオーラル・コミュニケーション中心の学習法が言語の非対称性を維持する上で有利であるかについてはこれまでに何度も書いた。
植民地ではオーラル中心の語学教育を行い、読み書きには副次的な重要性しか与えない。
これは伝統的な帝国主義の言語戦略である。
理由は明らかで、うっかり子どもたちに宗主国の言語の文法規則や古典の鑑賞や、修辞法を教えてしまうと、知的資質にめぐまれた子どもたちは、いずれ植民地支配者たちがむずかしくて理解できない書物を読むようになり、彼らが読んだこともない古典の教養を披歴するようになるからである。
植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。
けれども、宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。
「文法を教えない。古典を読ませない」というのが、その要請が導く実践的結論である。
教えるのは、「会話」だけ、トピックは「現代の世俗のできごと」だけ。
それが「植民地からの収奪を最大化するための言語教育戦略」の基本である。
「会話」に限定されている限り、母語話者は好きなときに相手の話を遮って「ちちち」と指を揺らし、発音の誤りを訂正し、相手の「知的劣位」を思い知らせることができる。
「現代の世俗のできごと」にトピックを限定している限り(政治経済のような「浮世の話」や、流行の音楽や映画やスポーツやテレビ番組について語っている限り)、植民地人がどれほどトリヴィアルな知識を披歴しようと、宗主国の人間は知的威圧感を感じることがない。
しかし、どれほどたどたどしくても、自分たちが(名前を知っているだけで)読んだこともない自国の古典を原語で読み、それについてコメントできる外国人の出現にはつよい不快感を覚える。

日本の語学教育が明治以来読み書き中心であったのは、「欧米にキャッチアップ」するという国家的要請があったからである。
戦後、オーラル中心に変わったのは、「戦勝国アメリカに対して構造的に劣位にあること」が敗戦国民に求められたからである。
私はそれが「悪い」と言っているのではない。
言語はそのようにすぐれて戦略的なものである。
英語圏の国が覇権国家である限り、彼らが英語を母語とすることのアドバンテージを最大化する工夫をするのは当然のことである。
非英語圏に生まれた人間は「それだけ」ですでに大きなハンディを背負っているような「仕組み」を作り上げる。
これを非とする権利は私たちにはない。
日本だって70年前には東アジアの全域で、「日本語話者であることのアドバンテージが最大化する仕組み」を作ろうとして、現に局所的には作り上げたからである。
けれども、ハンディキャップを負う側にいる以上、「どうやって英語話者の不当に大きなアドバンテージを切り崩すか」ということを実践的課題として思量するくらいのことはしてもよいと思う。

私からのご提案はとりあえず一つだけ。
それは、びっくりされる方もおられると思うが、「英語」という包括的な名称の廃絶である。
かわりに暫定的に「lingua franca」という言語カテゴリーを作る。
かつてヨーロッパにおいてはラテン語がそうであった。
知識人たちはローカルな国語を生活言語として持つ一方で、ラテン語で著述し、書簡を取り交わした。
私はこの「リンガ・フランカ」はフェアな仕組みだったと思う。
というのは、ラテン語については「ラテン語を母語とする国民」というものが存在しなかったからである。
知的競争に勝つチャンスは、とりあえずヨーロッパの言語圏においては平等に分配されていた。
この状況を21世紀のリンガ・フランカについても適用すべきではないかと私は思う。
では、「英語」ではないところの「国際共通語(リンガ・フランカ)」とは何か。

福岡伸一先生がこんなエピソードを紹介していた。
アメリカで分子生物学の学会があった。
福岡先生がその開会セレモニーに参加したとき、学会長の挨拶があった。
学会長はドイツ人の学者であった。
彼はこう言ったそうである。
「この学会の公用語はEnglish ではありません」
会場はどよめいた。ではいったい何語で学会は行われるのであろうか・・・
学会長はこう続けた。
「この学会の公用語はPoor Englishです」
私はこの構えを支持するものである。
Poor English はシェークスピアやポウを読むための言語ではない。
それは「英語を母語としない人々同士が意思疎通を果たす」という目的だけに限定されたリンガ・フランカである。
Poor Englishをオーラル・コミュニケーションの場で用いる際のいくつかの規則をここで定めておきたい。
(1) 決して話者の発音を訂正してはならない
(2) 決して話者の文法的間違いを訂正してはならない
「発音の間違い」や「文法的な間違い」が指摘できるということは、「正しい発音」や「正しい文法的表現」が「正解」として知られているということである。正解がわかっているからこそ、それが「誤り」であるとして訂正可能となるのである。
正解がわかっているということは、話者が「何を言いたいのか」はすでに知られているということであり、それはPoor English においては十分なコミュニケーションが成立しているとみなされる。
(3) ただし、自分より話すのが下手な人の「言いたいこと」をより適切な文に「言い換え」て対話を継続することは許される。
(4) Poor Englishは学校教育のどの段階から開始しても構わないが、教師は「英語を母語としないもの」とする。
とりあえず、私が思いついたルールは以上の4点である。

非英語圏の英語教育は「リンガ・フランカ教育」と「英語教育」に二分すべきだと思う。
この二つは別のものでなければならない。
日本の英語教育が失敗しているのは、この二つを混同しているせいである。
「リンガ・フランカ」では日常的コミュニケーションでもっとも使用頻度の高い語から教える。
「英語」でははやい段階から英米文学の古典を教える。
「リンガ・フランカ」では身ぶり手ぶりもピジンもすべて正規の表現手段として認められる。
「英語」では、古典を適切な日本語に翻訳すること、修辞的に破綻のない英文を作ることを教育目標に掲げる。
中学なら時間割の時間配分は5:1くらいでよろしいであろう(もちろんリンガ・フランカが5)。高校になったら3:1くらいにして、大学ではできたら2:1くらいまでに持ってゆく。
これは「英語がほぼ独占的な国際共通語になった」という歴史的状況に対処するための、たぶんいちばんプラクティカルなソリューションであると私は思う。

小学生程度の英語を流暢に話す技能を「英語ができる」と評価することに私は反対である。それは「リンガ・フランカがよくできる」という項目で評価し、「英語ができる」という言い回しは「仮定法過去完了」とか「現在分詞構文」とかがぱきぱきと説明でき、He is an oyster of a man というようなセンテンスを嬉々として作文に使う子どものために取っておきたいと思うのである。
どうであろうか。
難波江さんの意見聞きたいんですけど、どうでしょうね。
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by anglophile | 2010-05-21 19:39 | その他 | Comments(0)
2009年 12月 23日
「トマス・ピンチョン コンプリート・コレクション」の続報
昨日は、今月のウェッジ文庫二冊(『独楽園』、『野口冨士男随筆集 作家の手』)を買いに、新刊書店に行ってきた。

お目当ての二冊を不釣り合いな大きさの買い物かごに入れて、しばらく店内をうろうろする。そして、外国文学の棚の前に来て、『世界文学全集』(池澤夏樹・個人編集)のカラフルな背表紙の群に目が行く。なんとなく『ヴァインランド』(トマス・ピンチョン)を手にとってみる。ショッキングピンクのカバーが素敵だ。奥付を見て、今月配本されたばかりであることを知る。次に、訳者の佐藤良明による解説と年譜を読み始める、近くのソファーに座って。ピンチョンの年譜が興味深かった。例えば、何年か前のアニメ『シンプソンズ』に、ピンチョンがキャラクターとして二回ほど登場していたらしい。ただし、頭には買い物袋をかぶっているので顔は見えない。で、その声をピンチョン自身が担当していたということだ。それは見てみたい!You Tubeで見れるのかしら。

で、解説の最後に、「トマス・ピンチョン コンプリート・コレクション」のことが書かれていた。もうすぐ刊行開始とのこと。柴田元幸は『メイソン&ディクソン』を、木原善彦は『逆光』(原題Against the Day)の訳をすでに脱稿しているという。佐藤もこれより『重力の虹』の新訳に取りかかるとか。ということで、予定よりも一年遅れて、ようやくこの全集が動き出す!
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by anglophile | 2009-12-23 12:05 | その他 | Comments(0)
2009年 12月 04日
ジョイスとダブリン
昨日どこかのブログを読んでいて、『一読永劫 ~ベストセラー作家が選ぶ名作の風景~』というテレビ番組があったことを発見した。八人の「ベストセラー作家」たちがそれぞれ文学に縁のある土地を訪れるという紀行番組である。で、気になったのが「桜庭一樹編」である。というのも、アイルランドのダブリンを訪れるという内容なのだから、これは見なければならない。ということで、いろいろ検索をかけてみたら、TBSオンデマンドというのがあって、今でも有料(二一〇円)でこれが見れるのね。いやはや便利です。良心的な価格設定(笑)なので、早速視聴する。

番組自体は、ジョイスが祖国アイルランドをどう考えていたかなど、すでによく知られている事実をもとに構成されていた。そんなことよりも、私はとにかくダブリンの風景に久しぶりにふれてみたかったのだ。一五年前に訪れたときの光景が瞼のうらに甦る。オコンネル橋、リフィー河、マーテロー塔などなつかしかった。マーテロー塔はダブリンの郊外だったかにあって、電車の駅からサンディーコーヴの海岸線沿いを少し歩いたところに位置している。今ではジョイス記念館になっている。番組の中で桜庭さんが館長さんに塔の頂上まで案内してもらっていた。うらやましかった。たぶん許可を得ないと上れないと思うのだが。私もあのとき頼めば通してもらえたのだろうか。

三〇分番組だったが、しばしノスタルジックな時間にひたれて心地よかった。ちなみに、私は桜庭さんの本は持っていない。ただ、以前書店で『読書日記』シリーズの一冊を立ち読みしたことがあった。当然といえば当然だが、彼女は「無類の読書家」であるようだ。外国文学が特にお好きだという。機会があれば、小説の方も読んでみようかな。

番組に興味のある方は、以下のページから視聴できます。

http://tod.tbs.co.jp/showtime/180-ichidoku05sakuraba/index.html
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by anglophile | 2009-12-04 15:30 | その他 | Comments(0)
2009年 11月 01日
三文豪と自転車とスタンプラリー
今日は申し分のない秋晴れのもと、午後から『秋は金沢三文豪スタンプラリー』を敢行がてら、金沢市中心部を自転車で散策してきた。スタンプラリー達成者がもらえる「オリジナル文庫本」がお目当てだった。対象となるチェックポイントは以下の5箇所である。

・泉鏡花記念館
・徳田秋聲記念館
・室生犀星記念館
・金沢文芸館
・石川近代文学館

このうち、泉鏡花記念館が今日まで休館日なのだが、5つのうち4箇所をまわればよいので問題なし。まずは室生犀星記念館を訪れた。ここでは、現在、犀星生誕120周年記念の企画として「装幀の美 恩地孝四郎と犀星の饗宴」(11月15日迄)が開かれている。これが良かった。私は恩地孝四郎については多くを知らないが、それでもあの装飾的な文字は一度見たら忘れられない。勉強のために瀟洒な図録を購入する。
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続いて向かったのが、石川近代文学館。ここには金沢三文豪だけでなく、石川県に縁のある作家たちの資料が数多く展示されている。ちなみに、朔太郎の『月に吠える』が展示されていたのには驚いた。あれは大正6年の感情詩社版だったろうか。本の状態があまりいいものではなかったから、復刻版ではなかったはず。(復刻版はよくヤフオクで見かける)恩地孝四郎による装幀のカバーもちゃんと付いていた。「本物」を目にすることができて興奮してしまった。

赤レンガの建物を後にして、次は金沢文芸館へ。ここは以前銀行だった建物をそのまま文芸館にしたということだった。建物自体は昭和4年に建てられたもので、昭和初期の雰囲気が残っているように感じる。3階建てで、1階は交流サロン、2階は「五木寛之文庫」、3階は文芸フロアになっている。金沢にある書店に行くと、よく五木寛之コーナーがあったりするほど、この作家は石川県と深い縁がある。自筆原稿も展示されていたが、私は五木寛之の書く文字も好きである。3階には泉鏡花文学賞の歴代受賞作が展示されていた。係員の女性の方が丁寧に説明してくださった。

さあ、残すはあと1つ。午後5時には閉館するので先を急ぐ。徳田秋聲記念館は浅野川沿いにある。正直、徳田秋聲についてはほとんど知らないのが情けないかぎりである。館内1階の奥に、「秋聲作品への賛辞」ということで、夏目漱石、正宗白鳥、室生犀星、廣津和郎、川端康成、古井由吉、中上健次らの言葉が書かれたパネルが設置されていた。中でも、古井由吉の「とにかく男女の日常の苦と、とりわけその取りとめのなさを描いては右に出る者もいないのではないか」という言葉が印象に残っている。ちなみに、古井はむかし金沢大学の独文科で教えていたことがあった。

さて、めでたくスタンプラリー達成ということで、秋聲記念館で「オリジナル文庫」を頂いた。題して、「金沢三文豪掌文庫」。全76頁のかわいらしい文庫である。
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収録作品は、以下の如し。

・泉鏡花 「絵本の春」
・徳田秋聲 「少年の哀み」
・室生犀星 「旅にて」
・三文豪俳句抄

犀星の「旅にて」は、犀星の郷里金沢での庭づくりの話が出てくる随筆である。そういえば、今話題のウェッジ文庫からしばらく前に『庭をつくる人』というのが出ていた。明日にでもさっそく買いに行かねばなるまい。

久しぶりの自転車による遠出で良い運動になった。実は、今日訪れた4つの文学館は今まで一度も行ったことがなかったのだ。地元にこんなに素晴らしい場所があったことにうれしくなった一日であった。お腹がいっぱいになりました。

◆『2666』読破メーター:386頁
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by anglophile | 2009-11-01 00:00 | その他 | Comments(0)
2009年 10月 30日
『秋は金沢三文豪』
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明日、上記のスタンプラリーに参加してみようと思っている。ラリー達成者がもらえる「オリジナル編集の文庫本」がお目当て。
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by anglophile | 2009-10-30 11:43 | その他 | Comments(0)