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古本万歩計 Of what is lost, all I wish to recover is the daily availability of my writing, lines capable of grasping me by the hair and lifting me up when I'm at the end of my strength. - Roberto Bolano

棕櫚の葉を風にそよがせよ

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古本道に勤しんで6年ほど経つが、野呂邦暢の本は本当に見つからない。と嘆息していたら、文遊社から『野呂邦暢小説集成1 棕櫚の葉を風にそよがせよ』という美しい本が出た。当然、買いますね。

冒頭に収められている表題作「棕櫚の葉を風にそよがせよ」がすばらしい。時折挿入される風景描写、情景描写が利いている。巻末を見ると、この中篇は1968年の『文学界』6月号に掲載されたとある。後に単行本『鳥たちの河口』(文藝春秋)に収められた。集英社文庫にも入ったが、どちらも未所持。ところで、「棕櫚の葉を風にそよがせよ」という題名はオーウェルの『葉蘭をそよがせよ』を想起させるが如何に? しかし、オーウェルの小説は邦訳が1984年に出ていて、野呂は80年に亡くなっているから、このタイトルは知らなかったはず。それとも原書で読んでいたのか。だとしてもここまで題名が似ることはないだろうな。

この「棕櫚の葉を風にそよがせよ」を読んでいて気になる一節に出会った。以下引用。
 倉庫からセメントを出して一人で軽トラックに積みこんだ。おくれていたセメントがきのう着いたのだ。この配達をすませたらきょうの勤めが終る。バックミラーに映る物のかげは、輪郭がナイフで刻んだようにくっきりときわだち、色彩も鮮かになるようである。フロントグラスごしに眺める風景はひたすら平凡なのに凸面鏡に反射した世界は浩一の目をみはらせる。また何気なく車の上から振りむくとき、ありふれた街路のたたずまいがはっとするほど彫りの深い翳りを帯びる。無関心に通過した街並が彼の背後にうつるとたちまち異様に華やかな別世界に変貌してしまうようである。
 それは罠にかかっていた獣がばねをはずされた瞬間、満身の力をこめて踊りあがる姿態に似ている。浩一をやりすごすまでは何喰わぬ顔で仮面をかぶっていた世界が、いったん彼の後ろにまわると息をのむばかりに光彩陸離とした世界に変る。だから気づかれないようにすばやく振りかえることが肝腎なのだ。彼をやりすごしたと安心していっせいに身慄いし灰色の埃を払いおとす瞬間をねらって敏捷に首をひねらなければこの世界の本当の顔はのぞけない。しかし振りかえっても一、二秒後には見られたと悟った背後のものどもが正面の世界と同じうす汚れた砂埃に早くもおおわれて、かすかな胸の悪さをもよおさせ始める。もう目に映るのは白っぽい砂塵にまみれた合歓の木の並木がさあらぬていで夏の午後の生ぬるい風に揺れている光景ばかりだ。(45-6頁)
時折このように筆者の視点が登場人物の周囲の風景にフォーカスする。そのフォーカスの強度が尋常ではない。で、何が気になったかというと、この一節と非常によく似たことをホーソーンが書いているのである。
... the best way to get a vivid impression and feeling of a landscape, is to sit down before it and read, or become otherwise absorbed in thought; for then, when your eyes happen to be attracted to the landscape, you seem to catch Nature at unawares, and see her before she has time to change her aspect. The effect lasts but for a single instant, and passes away almost as soon as you are conscious of it; but it is real, for that moment. It is as if you could overhear and understand what the trees are whispering to one another; as if you caught a glimpse of a face unveiled, which veils itself from every wilful glance. The mystery is revealed, and after a breath or two, becomes just as much a mystery as before. (Twenty Days with Julian & Little Bunny, by Papa, p. 73)

...風景というものを鮮明に捉え感じるには、その前に腰を下ろし本を読む、または思索に没頭してみるとよい。というのも、何気ないふりをしてその風景にふと目をやると、そこに無防備になった自然の姿を見つけることができるからだ。そのとき自然はありのままの姿をさらしている。ところがその状態は一瞬のうちに変化し、こちらが見ていることを悟るや自然は姿を変えてしまう。惜しいかな、その一瞬は自然のまごうかたなき真の姿を捉えていた。まるで木々がお互いにささやき合っているのを盗み聞きしたかのよう。ベールの向こうから顔がちらりと見えた瞬間である。しかし意識して捉えようとする目にはその表情は決して見えない。神秘は明かされるが、こちらが息を呑んだ途端、またもとのベールに包まれてしまう。
これはホーソーンのエッセイを集めた、全集版で言えば、The American Notebooks という分厚い巻に入っている文章で、10年前に Twenty Days with Julian & Little Bunny, by Papa というタイトルで単行本化もされている。ホーソーンの小説は苦手だが、この手の随筆は嫌いではない。

アメリカ文学史の源泉に不動の地位を確保している作家の150年前の文章と、その本が手に入りづらい日本のある現代作家の文章との興味深い一致。
by anglophile | 2013-06-08 18:26 | 読書 | Comments(0)