2011年 04月 26日
おかしな本棚
クラフト・エヴィング商會の新刊『おかしな本棚』(朝日新聞出版)を読んだ。今年の私的ベストテン確定の一冊であった。他人の本棚にある本の背表紙を眺めることのなんと楽しいことか!
私の場合、古本屋の本棚に心弾むことはいうまでもなく、他の方のブログで本棚の写真などがアップされているとパソコンの画面をのぞきこむようにして見る、見る。そして、拡大して画像が粗くなるともどかしく感じる。ついでにいえば、家にある都築響一『TOKYO STYLE』に貼ってある付箋は、すべて本棚が写っているページを示すものだ。
珠玉の言葉を繋留しておく。
ぼくにとって本棚とは「読み終えた本」を保管しておくものではなく、まだ読んでいない本を、その本を読みたいと思ったときの記憶と一緒に並べておくものだ。(3頁)
いまはインターネットによって、容易に本が見つかるし、ネット上で見つけてから手に届くまでの待ち時間は、なんと「ひとねむり」。夜にオーダーし、ひとねむりして目を覚ますと、もう届いている。ありえないありがたさ。
が、ありがたいことは、おおむね何かと引き換えになっていて、結論を先に行ってしまうと、我々はどうやら「読めない」を失ってしまったらしい。もう少し補足すると、「読めない時間」を失った。おかしなことである。待ち時間を「ひとねむり」にまで短縮して時間を稼いだのに、稼いだはずの「時間」が失われている。
というか、失われて初めて輪郭が得られたのは、どうやら、この世でいちばん価値のある時間は待ち時間であるということだ。待たされるあいだの「空虚」「期待」「予測」「妄想」「やきもき」「ちくしょう」「あんなか?」「こんなか?」等々が、待ち望んだ書物を彩り、絶妙のスパイスになる。そして、それでもなお待たされたりすると、予測や妄想が暴走し、読んでもいないのに誤読を始め、ついにはあたらしいものを勝手に生み出してしまう。どうしても読めないなら自分が書く---とペンを握る。こうして、人は待ち時間によって芸術家になった。(116-7頁)
本は「探すこと」がいちばんの醍醐味です。その次に「なかなか読めない」醍醐味があり、三番目にようやく「読む」醍醐味があります。(171頁)